2017.09.20

五十嵐英憲講師に聞く Part.2 「問題解決や論理的思考でも完璧な論理は作れない」

最初は明確に「講師」というものを仕事にしようとは思っていなかった

楠:ここで、五十嵐さんが講師になられたきっかけをお聞かせいただけますか?

五十嵐:きっかけは35歳のとき。明確にこういうことをずっとやりたいと思っていたわけじゃないんですよ。たまたま勤めていた化粧品会社を「辞めようかな」と思うことがいくつか重なったときに、リクルートのトレーナー募集があって、それを受けてみてはどうかという人がいてね。

何故そういうことを言われたかといえば、化粧品会社にいた当時、僕は「この会社腐ってる」とか言ってたんです(笑)。「売れないのに売ってこい」とか「客先の在庫を増やしてでも自社の売り上げを作ろう」みたいな雰囲気はおかしいと。でも、当時の僕はまだまだ営業マンとして幼かったから、小売店に在庫を持たすのではなく、お客様に喜んで買ってもらうようなアイデアを提供することができなかった。営業マンの役割として、もっと前向きに大人として考えられればよかったんですが、それができなかったんですね。35歳でしたが、いま考えれば幼かったですね。

楠:社会人としていちばん脂が乗ってらっしゃるときですよね。

五十嵐:ただ、いま思うとあまり深く考えてなかったんですね。だから、仕事に対する不満やいくつかのファクターが重なって「この会社辞めちゃおうかな」とは思っていたけれど、辞める勇気はなかったんです。とくに僕が働いていた化粧品会社のような恵まれた会社をスパッと辞められるものでもないし、辞めてからの将来に対する不安みたいなものもありましたよ。

でも、リクルートの試験を受けに行って、逆に自信がついちゃった(笑)。

リクルートの最初の試験の受講者の母数が大きくて……その回は全国で5000人くらいが応募したらしいんですけれど、そこから1次試験、2次試験、3次試験、4次試験と最終的に4人まで絞られていく。そのリクルートの試験というハードルをクリアして残ったということは、それなりに世間で通用するんじゃないかという自信ができた。その自信が持てたのは大きかったですね。ハードルをクリアしたことによって、自分は他の会社に行っても通用する可能性が高いんじゃないかと実感したわけですよ。

楠:5000分の4の確率ですからね。

五十嵐:あとでわかったんですけれど、リクルートのトレーナー試験は非常に難しくて有名らしいんです。それをくぐり抜けたのと、もうひとつ3次試験の2泊3日の合宿試験のときに現役のトレーナーである講師が来て「この仕事はいかに素晴らしいか」ということを語るセッションがあったんですよ。2時間くらいのセッションで、現役バリバリの人が来て語ってくれたんだけれども、こういう仕事は面白そうだなと。そのときにひらめくものがあったんですよ。だから「講師のような仕事をやりたい」という潜在願望みたいなものが、もともとあったのかもしれない。

リクルートで体験をさせてもらわなかったら、
いまの仕事をできていないかもしれない

楠:「リクルートのトレーナー試験受けてみては?」というのは、どこからお話が来たのでしょうか?

五十嵐:それは当時の上司にあたる人からですね。「そういう文句ばかり言っているとダメだ」「お前みたいなやつは、他の会社行ったって通用しないんだ」と言われて。「お前なんかそんなの受けてみたら一発でダメだから」みたいなトーンですね。ただ、他では通用しないことを痛感させたくて「行け」と言ったのに、選考に残ってかえって自信になっちゃった(笑)。現場のトレーナーからの話を聞いて、魅力的だなとも思いましたしね。

楠:そのあと、すぐに講師になられたんですか?

五十嵐:そのあとはこれで合格ですから、リクルート側はいつ来てもらっても契約しますよと。年収の面でも非常に魅力的ですよと。そうだなぁ、動機は3つめがあるなぁ。年収に目がくらんだっていうのがあるな(笑)。いまから35年くらい前の話ですけれど、当時で部長クラスの年収になるという話だったんですよ。半分ウソなんですけどね(笑)。一番腕のいい人が、それくらいリクルートでは稼いでたと。僕は35歳で全国最年少でしたから。講師の経験もないし、教育の基礎知識もない。そういう人が部長クラスの年収を稼げるわけがないじゃないですか(笑)。

ただ、そこを目指せば何とかなるということで会社を辞めて、リクルートの専属契約の講師になりました。リクルートでどっぷり3年くらいは仕事をしましたね。ただ、講師になったものの仕事がないので、「営業同行しましょう」と営業と一緒に回っていました。だから、僕は営業同行はまったく平気なんですよ。むしろ、楽しいくらい。

営業に同行して「決まった仕事はちょっと僕のところに回してくださいよ」と仕事を増やしてったりね。紆余曲折ありましたけれども、3年はリクルートでお世話になりました。これがいまの仕事のベースとなっています。だからリクルートでいろいろな体験をさせてもらわなかったら、いまの仕事をできていないでしょうね。

そのあと、私に悪いことをけしかける人がいてね(笑)。いつまでも搾取型の下請けみたいなことをやらないほうがいいと、客先の社長さんに言われて。「コンサルタントなんていうのは独立しないとダメなんだ」と。「実力を付けるまでうちの仕事をかなり出すから独立しなさい」みたいなことを言われて、3年でリクルートの仕事を辞めました。

問題解決や論理的思考を勉強したけれど、
完璧な論理は作れないということがわかったんです

五十嵐:ただ、ここからが塗炭の苦しみですね。リクルートの仕事ってね。リクルートのノウハウがあるからできる仕事で、ひとつは講師のキャラクターみたいなものと、もうひとつはリクルートのデータベースみたいなものがあるわけですよ。このデータベースと講師のキャラクターがくっつくから付加価値ができる。でも、僕はそれを知らなかったものだから、データベースなどなくても自分自身の魅力みたいなものでできると思って、独立してやってみたら、全然うまくいかないんですよ(笑)。

楠:そうなんですか?

五十嵐:うまくいかない。で、そのうちにね。リーダーシップみたいなものが本当に仕事に役に立つのかみたいな疑問も出てきて……そこで、ヒューマンスキル以外のことをもうちょっと身につけなくちゃいけないと思い始めたんです。いまでいうと、クリティカル・シンキングみたいなものかなぁ。要するに問題解決や論理的思考。そういうものを勉強したいなと思って、メチャメチャ勉強したんですよ。

けれども、やっぱり限界がある。つまり、完璧な論理は作れないっていうことがわかったんです。論理的思考は必要だけれども、完璧な論理が作れると思って取り組んだら、そんなものはできっこない。だから、ある条件が整っているなかで、のロジックのは正しさは証明できるけれど、ビジネスの世界はさまざまな条件がたくさんあって、その条件を全部入れ込んだロジックを作るなんてことは多分無理なんだろうと。そこで論理的思考の講師をやっていると、理屈の上塗りみたいなことになってしまうので信用できないなと……。

楠:講師として論理的思考をやられるなかで、何か違和感を感じられたということでしょうか?

五十嵐:要するに、理屈でねじ伏せるとか、理屈でごまかすみたいなことになっちゃうわけですよ。それはしっくりこないですよね。講師をやっていても、その研修の場はともかくとして、受講生にとってもねじ伏せられた理屈は共感できないですよね。
それもロジック自体が緻密なロジックで論破していればいいけれど、なかば講師の立ち位置みたいなところで、その場をねじ伏せても……。若い頃はそういうこともありましたが、聞いている方は屁理屈みたいな感じを受けていたんでしょうね。

そこで、次に何をやろうかと悩んで、もう1回ヒューマンスクールに戻ったんですね。そこでの体験学習がコーチングのはしりみたいな研修です。そのころからファシリテーターって言葉を使ってたんです。体験学習でヒューマンスキル、アクティブリスニングとかね。これも面白かったですよ、最初は(笑)。最初は面白かった。

楠:最初は……(笑)

五十嵐:すごく面白くてね、そのときに会社も作ったんです。体験学習を売る会社みたいなものを作って。東京にある有名な会社の出先みたいな感じで、名古屋に自分の会社を作ったんです。そこで体験学習を普及させようということを志したんだけど、これはキャラクターみたいなものが絡む世界なので……。コーチングを専門にやる講師の人はたくさんいらっしゃるけれども、圧倒的に女性が有利なんですよ。

それは、ヒューマンスキルの世界は人を包み込んでいくような包容力みたいなものがベースにないとできない。いろいろとチャレンジをしてみたんだれけど、僕はそういうものはあまり得意じゃないんですね(笑)。

「目標管理」というテーマに出会って、
2500名の研修を5年くらいかけてやりました

五十嵐:当時の僕は、目の前にある業績を上げることと体験学習とかヒューマンスキルがうまく結びつかなくて、やっぱりまた落ち込むんですね。で、「さぁどうしよう」となったときに、「目標管理」というテーマに出会うんですよ。1990年の後半くらいの話ですね。

楠:世の中的には、バブルが崩壊して、成果主義のほうに舵を切ってる時期ですね。

五十嵐:目標管理の第2次のブームが起ころうとしていたときなんです。目標管理の第1次ブームは昭和30年代後半くらい。日本の企業が目標管理ということをドラッカーの本を手掛かりに、実務で入れようとした。これはやってみたけど、どうもしっくりこないということで、ブームがしぼんでしまうんですよ。ところが、1990年くらいにもう1回目標管理が注目されたときに、ある人と出会って「業務目標を達成しましょう」と。これは僕のなかでしっくりきたんです。いままで、「こんなもの役に立つのか?」と思っていたもやもやとしたものが、「これは役に立ちそうだ」と。それから、目標管理という世界にのめり込み始めるんです。

そのときに、ある飲料メーカーさんが僕に研修の大量発注をしてくれたんですね。その大量発注してくれた研修というのは、「疑問に対する問題解決」というテーマなんですけれど、僕なりにアレンジして、2泊3日の研修で1日目に問題解決の理屈みたいなものを基本的な考え方として話す。ただ、問題はこのスキルをどこで使うんだということで。

そこで、研修のなかで「どんな場面で使うんだ」と言ったら、その会社の受講生が「いや、目標管理制度というのを我が社は1990年から始めてます」と。「ただ、あまりうまくいってません」という話が研修のテーブルのなかでぽつぽつと出てくるんです。

その話を聞いて、「これは!」とその飲料メーカーさんの人事部に行って、目標管理をやっているけれどうまくいっていないから、「目標管理の場面で、問題解決の考え方を使いましょう」という話をしたんです。つまり、目標管理と問題解決をドッキングさせましょうという、いまでは常識みたいな話なんだけど、そういう提案をしまして、飲料メーカーさんがそれを大々的に取り入れてくれたんですね。

つまり、世の中全体に目標管理のブームが来たところ、そのブームだけだったら僕はまだまだ部外者だったと思うんだけれど、たまたま関わりを持ち始めた飲料メーカーさんから「目標管理をテーマとして盛り込んで、我が社の研修をやってください」と声をかけられた。しかも大量発注だったんで、一気にですね。その研修が「いい研修」だったわけですよ。若手社員で始めた研修が課長クラスになり、それから次は部長クラスになり、最後は「役員みんな受けましょう」ってところまでいって。延べ人数で当時、役員含めて2500名の管理職がいたんですが、2500名全部の研修を5年くらいかけて一人で行ったんですね。

楠:すごいですね。

五十嵐:「それだけじゃ足りない」というから、今度は中堅社員もやろうじゃないかと。中堅社員は宿泊研修だとコストがかかるから、通信教育をやろうという話で。当時はその飲料メーカーさんも資金が潤沢にあったんですね。それを教育に大いに遣おうじゃないかという、自由な雰囲気の会社だったんですよ。

当時の担当者が通信教育やろうということで、コンセプトをどうするんだと言ったら、まず理論編が必要だからと、ビデオ撮影しようと言うんですよ。動画の通信教育はいまでは当たり前なんだけど、当時は斬新でしたよ。ビデオで収録したものを受講者全員に送って、それにはテキストをつけなきゃいけないから、まずテキストを執筆して……その当時執筆したものがもとになって、それに改良に改良を重ねて、『目標管理の教科書』(ダイヤモンド社)という書籍にグレードアップするんですけれど、飲料メーカーさんのおかげで執筆の機会をもらったようなものですね。それから、オーディションを含めると1週間くらいかけてビデオ撮影して……。これが面白かったですね。

だから、ブームがあったのと、その飲料メーカーさんが本気になって目標管理っていうテーマに取り組んで、なおかつ僕の投げたボールを拾ってくれたっていうことですよね。これが僕の人生にとって大きかったですね。

Part.3 「セルフコントロールの力をつけないと、目標管理のコンセプトは機能しないんじゃないか?」に続きます。

 

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